多摩地域

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多摩地域 (たまちいき) とは、東京都西部にあたる地域のことである。

概要[編集 | ソースを編集]

東京都の主要部である特別区部より西側にある、東京都に属する地域であり、特別区部とは異なり自治体は市町村となる。26市、3町、1村の30の自治体がある。

人口は約430万人であり、面積は約1159 km²。神奈川県、埼玉県、山梨県と接する。

別名多摩地区、三多摩などとも呼ばれる。三多摩はかつて存在した北多摩郡の領域にあたる北多摩南多摩郡の領域にあたる南多摩、現存する西多摩郡の領域と、かつて西多摩郡の領域だった市にあたる西多摩の3つの多摩を略したものである。だが、厳密には北多摩郡などには一部現在23区となっている場所があるため、三多摩が必ずしも多摩地域のことを指すわけでは無い。だが、多摩地域が長かったり、多摩だと混同を招く可能性があるため、三多摩と呼ばれることも多い。

歴史[編集 | ソースを編集]

詳細は「多摩の歴史」を参照

多摩地域は大河・多摩川を擁し、ちょうど山間部と平野部の境界にあるという立地のため、前近代は八王子青梅五日市が谷口集落として繁栄した。とくに八王子は戦国期の丘陵城郭・滝山城は大規模な城下町であり、北条氏による多摩支配の一翼を担った。一方、それらの中核集落と街道沿いの宿場町を除くと、「武蔵野」と称す未開発の原野が、徳川家康の開いた江戸幕府が江戸に本拠を構えて郊外の開発が進行するまで、入間川・荒川・多摩川に囲まれた浩大な範囲に広がっていた。古代、武蔵野と多摩川は東国を詠む和歌である東歌の題材として人気を博し、「多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだ愛しき」をはじめとして、多くの庶民が多摩の自然を題材に詠んでいる。

東京奠都で帝都・東京が建設された明治時代には、多摩は神奈川県に属した。しかし明治政府は多摩川水系からの水道摂取と自由民権運動の抑制を目的として、現地・神奈川県会の反対を押し切り、1893年東京府に併合した。大正末期から昭和初期にかけては、関東大震災からの復興によって鉄道沿線、特に地震に強い台地上の宅地化が本格化する。この点で台地の多い多摩は、震災の被害を抑制することが見込まれて高級住宅街も建設され、多くの住民が家を構えた。第二次世界大戦後の復興、特需景気、高度経済成長期と経て、住宅需要が相次ぎ喚起されると、大阪・千里ニュータウンや愛知・高蔵寺ニュータウンに次ぐ大規模ニュータウンとして多摩ニュータウンが造成された。

現代の多摩は、広汎な平野部・台地部のほぼすべてが市街化され、東京大都市圏の衛星都市・住宅都市としての地位を確立するに至っている。

地理[編集 | ソースを編集]

詳細は「多摩の地理」を参照

多くを平地が占めるが、そのほぼ全域を武蔵野台地多摩丘陵などの台地地形が覆っている。武蔵野台地は多摩川によって形成された、青梅を扇頂とする扇状地と捉えることができる。また武蔵野台地の中には、周辺よりもひときわ高い、島状の狭山丘陵が存在する。

多摩地域一帯は富士山や箱根山からの火山灰による関東ローム層が堆積していることから、かつては水が得にくい原野であった。古代から続く原野としての「武蔵野」のイメージは、多摩地域を覆う武蔵野台地から来ている。

西部は関東山地による山岳地帯であり、最高峰の埼玉県と山梨県にもまたがる雲取山もその一峯である。最低標高は狛江市の10.3mであり、雲取山は2,017mあるため、かなり標高差がある。他にも三頭山などの山が存在する。

河川・湖沼[編集 | ソースを編集]

多摩地域を流れる主な河川は多摩川である。多摩地域の多くの川が多摩川の支流であり、町田市や北多摩地域の一部などを除き多摩地域の殆どが多摩川流域である。主なダム湖は村山上ダム多摩湖)、小河内ダム奥多摩湖)など。

多摩川は多摩地域の中央を流れており、北部に武蔵野台地、南部に多摩丘陵がある。また多摩川は中流域で立川段丘という河川段丘を形成しており、湧水もみられる。多摩川の支流を含めた多数の河川が、多摩丘陵に谷戸という渓谷を形成している。

自治体[編集 | ソースを編集]

詳細は「多摩の自治体」を参照

気候[編集 | ソースを編集]

太平洋側気候となるが、内陸性の気候でもあり、23区と比べ夏はかなり暑く、冬はどちらかと言うと寒いという特徴がある。

交通[編集 | ソースを編集]

詳細は「多摩の鉄道」、「多摩の道路」、「多摩の飛行場」を参照

関連項目[編集 | ソースを編集]